仙台市の一番町一番街商店街(通称:ぶらんど~む一番町)の仙台フォーラスの屋上に鎮座する「和霊神社」は、愛媛県宇和島市の同名神社を総本社とし、四国では金毘羅さんと並ぶほどの信仰をあつめている大社である。
幕末の偉人坂本龍馬も家の守護神として土佐に勧請された和霊神社を崇敬しており、土佐藩脱藩の直前には、密かに詣で、決別の覚悟を報告したと言われている。
和霊神社の主祭神は、仙台藩祖伊達政宗の庶長子で伊予宇和島藩祖伊達秀宗に仕え、非業の最期を遂げた山家清兵衛公頼である。その子孫の山家豊三郎頼道は、明治維新後の仙台で没落した士族(旧武上)の町を自身の屋敷内に祀っていた和霊神社とともに商いの町へと再生に導き、現在の一番町商店街の基礎を築いた。
この宇和島から仙台へとつながる和霊神社の由来と一番町との結びつきを物語るにあたって、山家公頼を「清兵衛」、山家頼道を「豊三郎」とそれぞれの地域で親しまれた呼び名で紹介する。
永禄7年(1564)、山形城主最上義守の娘義姫(保春院)が、米沢城主伊達輝宗のもとに輿入れをする際、山家公俊(河内とも)は義姫に随行し、そのまま伊達家にとどまり家臣となる。和霊神社の祭神となる山家清兵衛は、この公俊の子である。
輝宗と義姫の長男として生まれた政宗は、家督を継ぎ、戦を重ねて領土を拡げるが、天下人豊臣秀吉の小田原征伐の参陣に遅れたことによる奥州仕置で減封され、居城を岩手沢(岩出山)に移す。この年、側室である新造
の方(飯坂局とも)に庶長子兵五郎が生まれる。幼少から豊臣家の人質として京・大坂に居住させるが、秀吉は自身の子である秀頼とともに可愛がり、元服の折には「秀宗」の名を賜る。秀吉が亡くなり徳川家康の勢力が増すと、政宗も徳川方に与するようになり、居城を仙台に移し、仙台藩62万石の藩祖となる。この頃には正室愛姫にも虎菊丸(忠宗)が生まれている。
家康が天下人となると秀宗は人質として江戸に身を置くが、この時の近習に山家清兵衛がいた。
慶長19年(1614)、秀宗は政宗に従い大坂冬の陣に参戦する。その戦功と忠義への恩賞として2代将軍徳川秀忠より「西国の伊達、東国の伊達と相並ぶように」と伊予宇和郡10万石を拝領する。仙台藩では二男忠宗が伊 達家の家督を継ぐこととなっており、秀宗にとっては僻地への移封であった。
政宗は、宇和島藩主秀宗の補佐役(家老)として清兵衛に惣奉行を命じる。
他に後見役に桑折左衛門、侍大将に桜田玄蕃などがいた。さらに五十七騎と呼ばれる家臣団と国造りの資金6万両を与えた。
清兵衛は宇和島に赴くにあたり、長男喜兵衛だけを仙台に残し、家督を継がせる。
慶長20年(1615)春、伊達秀宗主従が板島丸串城(宇和島城)に人場する。
当時の宇和島は、度重なる領主の交代と干ばつなどにより疲弊していたが、清兵衛は惣奉行として忠勤し、産業を興すなど領内に公平無私の善政を施したので、領民から敬募された。しかし、政宗から与えられた国造り の資金6万両をめぐって家臣の間で紛糾する。結局、清兵衛の提案により政宗隠居料として知行のうち毎年3万石を献上することになったが、これが藩の経費削減と家臣の減俸によるものであったため、桜田玄蕃をはじめとする政敵を作ることになる。そして、幕府から大坂城の石垣修復工事を命じられた際、この政敵玄蕃により担当した清兵衛が不正を行ったと虚偽の報告をされる。
秀宗は、この識言を信じ、清兵衛に蟄居を命じるが、もともと、6万両は返済の必要はないと考えており、浪費を諌められ、事あるごとに秀宗の行状を政宗に報告する清兵衛を疎ましく思っていた。
元和6年(1620)6月29日の雨の夜、刺客数名が清兵衛の館を襲撃した。清兵衛は、寝所の蚊帳を切り落とされ、身動きできないまま刺し殺される。享年42歳。二男、三男も惨殺され、四男は井戸に投げ込まれて殺された。隣家の娘婿とその子二人までも惨殺され、清兵衛の母、妻、二人の娘も屋敷からは逃げ延びるが、土佐の地でついには命を落とす。清兵衛の妻が仙台まで落ち延び、山家喜兵衛の屋敷内に持ち帰った清兵衛の書簡を祀った小祠(のちの山家明神)を建てたという言い伝えもある。
宇和島ではこの後、清兵衛を偲んで命日の夜には蚊帳を吊るさない風習があった。
清兵衛暗殺は、秀宗による成敗(上意討ち)であった。事件を知った政宗は激怒し、秀宗を勘当し、さらに幕府に宇和島藩の改易を願い出た。後見役の桑折左衛門、秀宗の正室亀姫の兄の井伊直孝の幕府への嘆願と老中土井利勝、柳生宗矩などによる取り計らいで、宇和島藩は改易は免れ、後に政宗も勘当を解く。
しかし、亀姫の三回忌法要の際に政敵だった桜田玄蕃が強風で崩れた寺院の下敷きになって圧死する
以降、清兵衛の政敵だったものや暗殺に関与したものが次々と変死する。
秀宗も自らの発病だけでなく、長男、二男、六男を早くに亡くし、さらに藩内に凶事が続いたため、人々は清兵衛の怨霊による祟りではと恐れた。
この祟りを鎮めるために秀宗は「児玉明神」という小剌を建立する。2代藩主宗利により「山頼和霊神社」として社殿が建立され、その後、代々の藩主の崇敬を得て、5代藩主村候により大規模な社殿が造営され、民衆に広く信仰されるようになる。村候は、住民総参加の祭りを奨励し、7月23日•24日の和霊大祭は、令和の現在も盛んである。
和霊神社は、第二次世界大戦の空襲により全焼したが、戦前以上の荘厳な姿に再建されて現在に至っている。
宇和島の山家家は一時断絶したものの仙台5代藩主吉村に請い、仙台藩の山家正蔵頼次の三男平三郎を迎えて清兵衛の苗跡を継がせた。
山家豊三郎は、山家清兵衛が仙台に残した長男喜兵衛の子孫であり、幼少から祖父に外記流砲術を学び、荻野流大砲術も修める武官であった。仙台藩が幕府から蝦夷地警備を命じられた際、大砲頭として白老に駐留し現地の指揮にあたる。その後も重職を歴任し、戊辰戦争では、武頭として精兵を率いて参戦した。
豊三郎が居住していた仙台城下の東一番丁は、数百石程度の中級武士たちが居住し、道の両側には土塀や杉の生垣で囲まれた武家屋敷が連なる閑静な町だった。この東一番丁と玉澤横丁が交差する一角(現在の一番町商店街と広瀬通の交差点北西角)に豊三郎の屋敷があった。
しかし、仙台藩が戊辰戦争で敗北したことにより町は一変する。武士たちは家禄を減らされ、さらに明治維新後の廃藩置県、秩禄処分といった大変革で職を失い、生活を困窮させる。土地、屋敷、家財を売りに出すもの、路頭に迷い夜逃げするものまで現れ、閑静な町はさらに寂れていった。
豊三郎も禄を失うが、武辺だけではない持ち前の明敏さで町の窮地を救う方法を模索する。幾度か東京、京都、大阪に視察に出向き、研鑽を重ね、ついに東一番丁を商いの町へと再生させることが最良の策であるという結論を固める。
明治2年(1869)、豊三郎は手始めとして、玉澤横丁に面した屋敷の一部に小店舗十数戸を建設し、商売希望者にこれを貸し出した。もともと人通りの少ない寂しい武家屋敷町の一角であったため、初めは借り手が少な かった。そこで、豊三郎は、家来の近藤文吉に当時としては珍しい煙草刻みを習得させて煙草屋を開業させる。これが誘い水となり、商売希望者が集まりだしたので豊三郎は商売の方法を教えた。そして様々な商売を営むものが集まるようになると次第に人出も増えてゆき、玉滋横丁は「山家横丁」と呼ばれるようになった。
昼だけではなく夜も賑わうようにと考えた豊三郎は、毎夜、灯火代と握り飯を与えるなどの特典を付けて夜の商いの出店を奨励した。
さらに賑わいづくりのために屋敷内の山家明神を一般に開放し、盛んに祭りを催し、夜見世を出して人を集めた。これが仙台での夜見世の始まさらに賑わいづくりのために屋敷内の山家明神を一般に開放し、盛んに祭りを催し、夜見世を出して人を集めた。これが仙台での夜見世の始まりとも言われる。この山家明神は、もともと祖先の山家清兵衛を祀った小祠であったが、宇和島の和霊神社から分霊して一社を建てたものであった。
豊三郎のこうした努力により、山家横丁から東一番丁全体に拡がり、様々な店が出現した。明治5年(1872)には、芝居小屋、牛鍋屋、蕎麦・会席料理屋、汁粉屋などが次々と開店し、その後もペンキ屋、氷水屋、洋食屋などが開店。劇場、芸妓屋もでき、多くの勧工場も開設された。
藩政時代の仙台では、国分町や大町が商業の中心地区として賑わっていたが、新興の町である東一番丁は、地価も安く、古いしがらみも少ないため、新しい商売をしたい人が開店するには好適だった。
東一番丁は、またたくまに仙台有数の繁華街として、また仙台の新しい文化の中心地として発展していき、明治時代の末期には東北ーと言われるほどの繁栄を見せるのである。
東一番丁の再生に成功した豊三郎は、その才を見込まれ、各地で様々な活躍を見せる。明治5年(1872)、石巻港に開業した豪商戸塚貞輔を助けて財を成す。明治7年(1874)、仙台の公園造園の幹事となり、翌年、仙台最初の近代的公園である桜ヶ岡公園(現在の西公園)の創設に参画する。明治9年(1876)、宮城博覧会の会場や展示品の選定と臨幸する明治天皇の行在所の設営に関わる。明治IO年(1877)開催の第1回内国勧業博覧会では、宮城県の出品取調係となるなどの才を現し、県も賞する著名人となった。
山家明神は、明神の号を改めて和霊神社と称し、明治16年(1883)、山家家が屋敷を東一番丁から東二番丁と立町通り角附近に移転した時には、同敷地内に遷座される。
晩年の豊三郎は、清水小路に居を移し、東京以北の名苑といわれる別邸「清奇園」をつくり、多くの文化人を招いて交友を深めるなど悠々自適の生活を送った。この清奇園の跡地には、現在、仙台市福祉プラザが建っている。
明治29年(1896)11月5日、山家豊三郎は65歳で没する。荒町仏眼寺に葬られた。
仙台フォーラス屋上。和霊神社の様子。
昭和52年(1977)一番町一番街商店街の活性化を願って現在の場所(フォーラス屋上)に分霊鎮座し現在に至っています。(2024年2月末より仙台フォーラス休館)
近隣の小学生の社会学習での様子。和霊神社の成り立ちをパネルを使って説明します。
※現在和霊神社は台原5丁目に鎮座しています。またFORUS屋上の分社である仙台一番町の和霊神社は、フォーラスの休館に伴い、現在非公開となっています。
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